城北埼玉学園は、祖父の近藤薫明が80歳を越えてからつくりあげた学校です。祖父・薫明は、かなり古くから続いている広島の神社の宮司になる家系の人間でしたから、宮司になるために上京して國學院大学に入学しました。
大学を卒業して厳島神社で禰宜として修行に出ることが決まっていたにもかかわらず、その経緯はもはや知り得ませんが東京府立四中(現・都立戸山高等学校)で一時的に教員をすることになりました。そのときに深井鑑一郎先生との運命的な出会いが祖父・薫明の人生を変えました。
当時の深井先生は、府立四中の前身である旧制城北中学校のときから40年間も校長先生を務められて、奉職したばかりの祖父・薫明は、その深井先生の教育者としての生き方に心酔し、宮司の道ではなく自らも教育者としての道を歩むことを決心します。深井先生は、退職後77歳にして城北学園(東京・板橋区の現城北中学・高等学校)を創立する決心をされ、祖父・薫明はいっしょに学園の創立に尽力しました。深井先生没後、2代目の校長に就任し文武両道の進学校としての城北を不動のものとしました。その後理事長を努めていたのですが、訳あって城北学園を離れ、城北イズムの継承者として1980年に城北埼玉高等学校を創立したのです。2002年には城北埼玉中学校を併設し祖父・薫明と城北埼玉高等学校初代校長、であった父・正己が理想としていた、中高一貫教育が実現しました。
本校の特色はといえば、文武両道です。理念としては、「人間形成と大学進学指導を二本の柱とした指導を行う」としています。学習指導はもちろんですが。それと同じくらい生活指導にも力を入れています。生活指導の一貫としてのクラブ活動を奨励しています。クラブ活動をいたずらに制御、コントロールするのではなく、決められた時間内で活動して活動実績を上げ、なおかつ大学進学実績も実現したいということを考えています。それは2本の柱にちょうど一致するのではないかと思います。
昭和54年 6月 | 城北学園理事長兼校長近藤薫明、城北中学・高等学校と同一の建学精神を持つ高校を埼玉県川越市に建設する計画を公表する |
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昭和54年11月 | 川越市農業委員会及び関係各省庁に農地転用許可を申請する この日(11月11日)を本校開校記念日と定める |
昭和54年12月 | 本校の正式校名を「城北埼玉高等学校」と定める |
昭和55年 4月 | 第1回入学式及び開校式を川越市市民会館にて挙行1期生267名 高等学校長 近藤正己就任 |
昭和55年 9月 | 校舎1号館および第1グラウンド、バレーボールコート、テニスコート等完成 |
昭和55年11月 | 校舎2号館完成 学校法人城北埼玉学園として独立 理事長 近藤薫明就任 |
昭和56年 3月 | 体育館完成 |
昭和57年 1月 | 本館管理棟完成 |
昭和57年11月 | 武道館完成 校舎完成記念式典を挙行 |
昭和60年 7月 | 城北埼玉学園生徒寮「白樺荘」(群馬県猿ヶ京温泉)完成 |
昭和61年 3月 | 室内温水プール及び第2グラウンド(荒川河川敷野球場)完成 |
昭和62年 4月 | 校舎3号館完成 |
昭和63年 8月 | 米国・ハワイ島所在・ハワイ プレパラトリー アカデミー(HPA)と姉妹校提携を結ぶ |
平成元年 4月 | コンピュータ利用に関する研究指定校(文部省)に委嘱される |
平成 2年10月 | 創立10周年記念式典挙行 |
平成 4年 8月 | 全館冷暖房施設完成 |
平成 4年12月 | 理事長 近藤正己就任 学園長 近藤薫明就任 |
平成 6年 9月 | ドーム型食堂完成 |
平成 7年 9月 | 創立10周年記念事業(パソコン室・理科演示実験室・進学資料室等)竣工 |
平成11年12月 | 理事長 近藤文彦就任 |
平成12年 4月 | 学校長 磯部徳彦就任 |
平成13年 7月 | 埼玉県知事より城北埼玉中学校の設置計画の承認(通知)を受ける |
平成14年 3月 | 近藤記念ホール竣工・テニスコート2面増設 |
平成14年 4月 | 城北埼玉中学校開校 第1期生181名入学 中学・高等学校長 近藤文彦就任 |
平成15年 3月 | 第3グラウンド拡張工事完成 |
平成16年 4月 | 文化・体育委員会新部室完成 |
平成23年 4月 | 中学・高等学校長 森泉秀雄就任 |
令和2年 4月 | フロンティアコース設立 |
令和5年 12月 | 近藤明彦理事長就任 |